すらっぱえ日記

筆者の頭の整理のためのアウトプット場です

私こそ貧困層である

仕事で、特に貧困層の子どもの貧困の連鎖を断ち切るために色んなレク企画したりしてるけですけど。

 

「そもそも、ここは貧困層の子どもがきてて、その連鎖を断ち切るために生き抜く力を育むために…」

 

と説明を受けてたんだけどね、ふつーに思ったこと

「私もその貧困層なんですけど。そういう場を提供しておきながら貧困当事者です。」

 

と、思いました。伝えてないけどね。

 

子どものために自分のプライベートな時間削るほどの意欲はないです。この給料だとモチベーションもその程度です。

 

給料アップ、待遇アップのためにそれこそ頑張ったほうがいいのかもしれないけど

 

そこまで他人の子どもにかける熱意はない。

 

ないのよ。

勉強しようとまだ思えるのは

 

私が一個人として成長できる要素を孕んでいるもの。

 

けど、完全にこどもの特性とか、理解にふりきってる本とかは読む気がおきない。

 

結局仕事もやりがいだけじゃだめなのよ。

 

6月にある見なおしで給料かわらなかったら、ちょっと厳しいな。あと半年この処遇なら私は安い家か実家に戻るかもしれない。

 

そして仕事に間違いなくよくない影響がでてくると思う。

 

ちょっと後ろ向きな気持ちである。

さりげなさとアピールとかわいさ

ALLY/ACE クマのキーホルダー

 

よく見てるYouTuberさんがかわいいグッズを作ってくれたようです。

こういうさりげなく分かる人には分かるグッズ、最高…!

数量限定みたいだけど買っちゃった✨

 

てかこういうグッズ、いいなあ

私もつくろうかな…!

 

https://youtu.be/DdF6nDRQoFs

https://aceflag.base.shop/items/62311347

苦手なこと

人に、「私にもそういう時期ありました」

と言われるのがどうやら私は嫌らしい。

 

「私はもうその弊害乗り越えました」

「だから分かるよ」

という、無言の上から目線に私の潜在意識が拒否反応を起こしているのだ。

 

けど、これって

人によっては別に上からとは思わないのかもしれない。

 

私には、上からに聞こえてしまって。

私は恐らくこれまでに経験した潜在意識の書き換えワークとか、その後受けたセッション等によって「もう自分の見直す大きな弊害はない」

と思っていた。というか思いたかったのだと思う。

 

まだまだ人として未熟な自分に耐えれないのかもしれない。

 

今日、私が無理していることに気づいて声をかけてくれた職場の先輩は、私よりうんと若くて、ただ、子ども業界での経験はとても長い。

 

彼が私にとても優しく、声をかけてくれているのはわかるのに、私は自分の未熟さをありありと客観視してしまいそれがいたたまれなくなってしまった。

 

嬉しいのに、悲しい。悔しい。

 

子どもに嫌なことを言われて

淡々と大人のようにやりとりしたいのに

それをすることによって感情的になる自分を想像すると全て放棄したくなる

 

子どもに感情的になって、

果てには泣いてしまったら

 

子どもにはきっと馬鹿にされる

 

それだけは私のプライドが許さないし、プロとして(経験としては素人同然だけどそこでスタッフをやる以上)

見せてはいけないと思っている。

 

私が涙もろく感情的なのは、昔からだ。

性質だし仕方ない。

 

そう思っていたけれど

 

どうやらこの性質と、私は向き合わなければならないようだ。

 

子どもの前で堂々とていたい。

 

些細なことに神経質になって涙に振り回されることが終わるなら、そこにいってみたい。

 

私はそこに辿り着けるだろうか。

 

ーー

追記

 

私が私の大事な気持ちを伝えようとすると泣いてしまうこと

このことを否定したくない

私は好きで泣くわけではない

 

ただ、泣いてしまうのだ

 

自分の意思とは反して泣いてしまう

 

それを絶対に馬鹿にされたくはない

自分で散々だめなことだと押し込めてきたことだけど、それがやっと理解してくれる人に囲まれているのに

 

どうして「治す」なんて言葉を使ってしまったのだろう

 

まるで悪いことのように。治すべきことのように。

 

私の何が悪いっていうのだ。

 

私はこの性質を治したくはない。

ただ、子どもにも分かってほしいのだとおもう。

 

そのことを、まずは信頼できる大人に相談してみたい。

 

私は治すべきことがある欠陥品じゃない。

 

 

幸せを感じる瞬間

私が幸せを感じる瞬間/こと

 

美味しいご飯を気のゆるせる誰かと食べて「おいしいね」とその空間とご飯をシェアしている瞬間

 

関わっている子どもが新たな経験、人との繋がりを通して楽しそうにしている時

 

おいしいコーヒーと、ケーキを誰かと時間を気にせず堪能している時

 

流水音を聞きながら、緑に囲まれて日光を浴びている瞬間

 

朝からすっきりうんちが出る時

 

実家にいつでも帰ると母が好きなメニューを作ってくれること

 

いつも車を文句言わず父が出してくれること

 

自分らしく振舞い、それが喜ばれ歓迎されること

 

自分の仕事を誇りに思えていること

 

自分の社会で否定されてきた個性を受け入れてくれる人に恵まれていること

 

行きつけの、いつでも行ってもいいと思えるカフェがあること

 

自分の小さな不平不満を小出しにできるツールを持っていること

 

私のために会ってくれる時間を惜しまない人がいること

 

私に手紙を書いてくれる/書ける友人がいること

 

自分のことを知ってもらえた、相手を知れたと思える瞬間

 

この人と仲良くなりたい!と思って動いたら相手もその機会を喜んでくれた瞬間

 

涙が流れてしまうことを受け入れてくれる環境があること

 

職場でみんなで一緒にご飯を食べれること

 

人間関係について仕事を通して学ばせてもらえていること

 

 

自分のパートナー像

最近、自分の性格や価値観が定まるというか、安定してきてある程度客観視できると同時に、融通が効きにくくなってきていると感じる。

 

「あわないな」「なんかちがうな」

と思う感度が強化されて、排除したくなるものが増えた。

 

自分が気持ちよく生活できるものだけ残ったが、一つ不安を抱えている。

 

私は一人で生きていく自信がない。

元々人といるのが好きだし、一人の時間が続くとしおれていく。人との交流、かかわり合いの中で思考を整理するし、生きる希望を見いだす。

 

私がパートナー(一緒にいたい人)に求めること

男女問わないが、相手に性欲が向かない(性行為なしで一緒にいれる)→女性のほうが安心

結婚してない(お互いにかける関係性のウェイトが同じであってほしい)

既婚の女友達とかは違うねん。だってその人には別のパートナーがいるから。

あとは、価値観があって、長時間一緒にいても疲れないこととか

根本的に人として好きになれるかとか、

 

からだの関係なしでも、大事に思い合える、お互いにパートナーという認識の相方がほしい。

 

贅沢かな?可能なのかな?そんな都合のいい人いないかもしんない。

 

けど今の私の状況から逆算すると、こうなるねん。私のパートナーになれる人てめっちゃ少ないと思う。

 

けど、あえて、その私が定義する、望む関係性のパートナーかやっぱりほしいなって思う。

 

生涯、ちょっと知り合った知人とか、交流会でさみしさを消費し続けたくないねん。

 

そんな気持ちです。

最近めっぽうさびしい。

 

最近の浄化曲

 

Dennis kuoのピアノ曲が最近好き。

波の音とピアノとビートの音が心地よく体に入ってくる。

Neptune illusion

https://youtu.be/DOpWN5Myyyw

 

夜の月明かりに浄化されるような、静かで美しい旋律

Track in time

https://youtu.be/DRucizIaAGc

 

夢の中って感じ。

天使が踊ってる。

Sweet saturn

https://youtu.be/sZFp1N8WxRw

 

それぞれ、ピアノのみの編曲も、ドラムや他の楽器入りのものもあるけど気分で色々聞き分けたりしている。

 

最近のお気に入りの紹介でした✌️

最近の変化

自分の存在に対してよりいっそう理解できた。

複数のオンライン、オフラインでの交流会や座談会に参加&セクシュアルマイノリティ向けSNSでとても狭義と思っていた同士が見つかり会話できたことで、かなり自認や起きている現象に納得がいった。

これまでは、どの定義の言葉も完全にはしっくりこず、ここまで恋愛感情や性的指向がちぐはぐしているのは何故なのか自分でも理解ができなかった。最近、色んな人と話す中で事情が紐付いてとても納得した。

 

・職場で自分の成長パターンがわかってきた

子どもの調子が悪いときに、八つ当たりされたり、かなりひどい仕打ちを受けたりしたら怒りに震えたり泣いたり、とりあえず当人との解決がうまくできず参っていた。

最近分かってきた自分のパターンで、

一通り同じようなパターンのことで傷付いて泣き晴らすと、少し余裕ができる。

新しくしんどいパターンをとりあえず浴び続ける時期と、対処法を模索できる冷静さを保てる時期のフェーズがある。

 

最近ずっと悩まされていたあるパターンを脱却できそうな兆しを得た。「子どもじゃなく自分が主語になったら、一度離れる」を忘れない。

 

・これまでハードルの高かったことに挑戦できた

外部団体の、子どもとの宿泊キャンプにボランティアとして参加することにした。

要するに、キャンプでの隼責任者みたいな感じになるのだろうが、これまでリーダー的役割はやはり避けてきていたので、勇気を出してみた。(ゴールデンウィークに行く)

 

・国際交流で新たな希望を見いだした

海外の男性とは、フラットな関係性を築きやすいと改めて思った。ただ私はカラオケにいったり、たまにの登山を共にできる、そんな友達が男女問わずいると楽しいなと思う。

最近そんな気軽な友情感覚から海外の男友達と出掛けたりすることができていて、嬉しい。

 

(私が知る限り)日本の男性は二人ででかけることに友情以外の意味を見いだす人が多い(これが居心地悪い)

不必要にガードされたり、何故か毎回奥さん同伴だったり。(私はただ旦那と友情を深めたいだけなんだが奥さんがいることで会話の幅が狭まるし、共有されてる感じが残念)