赦すって、そんなに簡単じゃない
自慢じゃないけど、私は優しいと思う。
優しいからこそ、そこにつけいられることもある。「きっと、赦してくれるよね!」と。
しかしこの「赦す」という行為は、はたしてそんなに簡単にしてもいいのだろうか?
よく、相手を赦しなさい。自分を赦しなさい。
と言うけれど、本当に全部赦してしまっていいのだろうか。
例えば、明らかに理不尽な目にあっているのに
そのことについて目を瞑り、赦すというのは違う気がするのだ。それは、形だけで実際には赦せてないし、偽りの許しだと思う。
私は今、自分に降りかかった理不尽な結果を全力で拒否している。
特に私の気持ちに全く思いが至ってない軽々しい発言に対しては全力で容赦しない。
だって、私がその理不尽なとばっちりに対して「こんなのおかしい!!」
と声を挙げなければ、向こうは意外と
「あ、怒ってない。大丈夫だった」
と、あっけなく終わってしまうもの。
だから、自分の尊厳を守るために私はおかしいと思うことにおかしいと言う。
自分の私利私欲を満たすために私を使おうとする行為発言にも容赦しない。
「なるべく早く解決したい」
とか、
「モヤモヤしてるかなと思って、話さない?」
とか
全部相手を思っているようで、自分がすっきり罪悪感なくして生きたいだけじゃないか。
なんで私がそんな私利私欲のダシに使われなきゃいけないの。ただでさえ理不尽な目にあっているのに。
だから私は今全力で「そんなのおかしい」と伝える。赦すまじ。
私の尊厳を守れるのは私だけだから。
ただ、私の尊厳を守って、自分ありのまま主張していると
とても心が凛としてくる。
不思議。
自分の価値を決めるのは自分。
自分の尊厳を守るのも自分。
尊厳を守ると、自分は自分で存在することに誇りをもてる。
「人を可哀想と思ったり、助けたいと思うのはエゴ」
と友人が言っていた。
その言葉の意味は、やはりされる側として、体験して初めて腑に落ちた。
可哀想と思われて、助けが必要と思われている。すごく悔しい。そんな助け必要ないのに。
これ、逆に私が他人に「こうすればいいのに」って介入したいと思ってるのが、結局自分がすっきりしたいエゴなんだなって。気付きを得ました。
赦すなら、徹底的に赦せると思うまで尊厳を守る、時間を味方につける。
私は、赦すことはほんとに最後の最後でいいんじゃないかと思ってる。
私が私であることに誇りをもてることのほうが、よっぽど大切だもの。