性質に逃げるという生き方
【性質に逃げるという生き方】
私はこれまで、事実として受け入れるにはメンタル強度が足りないことに対して都合良く【性質】を理由に逃げてきた。
この二つの要素は、他人に言われるなり、自分で勘付くなりして少なからず持ってる要素なのではとうっすら思っている。
アスペルガーについては、不登校の中学生や引きこもりの子どもの居場所作りをしていたおじさんに面と向かって言われたことがある。
そのおじさん曰く、社会に、コミュニティに順応できない子には発達障害的な要素が多く見受けられる とのこと。
で、そのおじさんは人の顔を見ただけでアスペルガーかどうかとかが分かるらしい。
「あんたがアスペルガーだってことは、写真見ただけで分かったよ」
と言われた時の衝撃はいまでも忘れない。
失礼すぎんか?と思って憤りを感じた。
それまで発達障害についてあまり知識がなかったので、言われてから自分で調べるように。ちょうどその頃から本屋さんで「大人の発達障害」についての本が増えだした気がする。
調べれば、確かに身に覚えのある症状や経験が複数浮かんできて、「ああ、そうか私はアスペルガーなんだな」
と、自分でも納得。自分が生きづらいと感じていた小さな違和感が無意識レベルで積み重なって納得できたように思う。
自分で自分が発達障害があると納得したときに涙が止まらなくなった。電車の中だろうが構わず号泣した。
それからは、発達障害に対して敏感になった。
「この人、強度のアスペルガーだな」
とか。「この人もそういう傾向があるな」とか。
会社でそういう性質が強くて分かりやすいせいでスケープゴートになっていた新人の子には、同情した。
「高学歴なのに仕事できないってことはやる気がない」
「勉強できるのに盆ミス多すぎ。人の話をそのままの意味でしか捉えられない。背景にある状況や言葉の変換などができない。」
とか、散々言われていた。
けど、ちょびっとその子の性質が分かる私は
「気を付けても人より気付けないんだよ」
「言葉での説明を受けとるのが苦手なんだよ」
と、彼の苦労も分かった。
働いて、気が利かないと呆れられる度に、「アスペルガーっぽいところあるし、しゃーない」
ってその性質に逃げるようになった。じゃないと、私個人が単に「気が利かない使えないやつ」と認定されることに耐えられないから。
HSPも一緒。
敏感な人って訳される。人よりも色んなもののエネルギーを吸収しやすい人。
人によるけど、音に過剰に敏感だったり
エネルギーがたくさん渦巻いてるところにいくとすぐに疲れたり。
わたしは、人の負の感情や裏の感情に気付いて、エネルギーを吸収しやすい性質があると前の学校滞在中に思った。
空気の悪いミーティングに参加して、一週間引きずったりもした。
2週間に一回自分の部屋に篭ってとことん泣いたり朝ごはんすら人からのエネルギーをもらう元気がなくて食べにいけなかったり、授業中急に泣き出したり、
とにかく人がたくさんいるところに出ていくことにストレスを感じていた。
「私、HSPの傾向があるし」
と言い訳に使わせてもらうことが多々あった。
私個人の欠陥、短所として受け入れるにはエネルギーが強すぎるものに対して、
「私こういう性質持ってるし仕方ない部分もある」
と私個人への責任を少しずつ逃すことで少し生きやすくなった。
正直今では自分があまりアスペルガー的だと思わないけれど、「あまりに受け止めるにはしんどい」ことを、世の中に一定数いる人の性質を理由にすることで、生きやすくなる人もいると思う。少なくとも当時の私はその性質を自分に認めることでちょっと楽になった。
ちなみに、私がこのホイスコーレに来たきっかけは上記2つの性質が大きかったりする。
「自分らしい生き方を見つけたい」
「HSPの敏感体質をポジティブな方面に活かしたい」
日本社会でみんなに混じって普通の顔をして生きるのはしんどい、そのしんどさとどう向き合えるのか
「他人からの負のエネルギーを受けとりやすいので、自分でリフレッシュする方法を体得したい」
まだ始めて間もないけど、TM(超越瞑想)はストレス解消にとても有効なようなので、この学校に来て良かったなあと思う。効果があって思うというより、直感でそう思う。
帰国前にイギリスの瞑想センターに一週間行くことになった。
ちょうど学校が終わって10日ほど何をしようかな、旅は疲れるしあんまり食指が動かないなと悩んでいたところ、ぴったりはまる日程の瞑想合宿を発見。
なんとなくTMが今の私にとって大切なんだなあというご縁を感じる。
そしてたまたまだけど、TMと遂行してやるのにぴったりなタロットカードを前の学校滞在中にゲットしていた。なんか全部繋がってる気がする。今はこのご縁を大事にしたい。