0か100か
私は基本的に人と関係性を構築する時
0か100か になりがちだ。
喋りながらなんとなく話が細部や重要なところに届かないなと感じると、話す内容を表面から深層部まで0~100あるとしてだいたい30ぐらいで留めておく。
私からしたら、その人への興味はだいたい一度目からなくなるので、体裁を繕うために30ぐらいは出すけど、まぁこの場合「0」も同然かな。
だって、届かない人に80も90も話したところでその話の真意が伝わらないからだ。
伝わらないのに、なにも自分が大切にしている出来事や感情、価値観を話す必要は感じない。
それをするとしたら、自分への裏切り行為にすらなると思う。
ただ、自分の「嫌だ」という意志は示すけれど。そういう人に、その意志の背景をわざわざ説明したりもしないだろう。
私が一番嫌なのは、私のストーリーが100部構成で、それをあますところなく加味して出した結論結果や葛藤があるとして
そこを100%理解されずに理解されることだ。
つまり、本当は100加味した結果なのに、それを30や50での結果と思って理解されることが一番嫌なのだ。
もちろん、私の人生に起こったことを100%人に分かってもらうことは不可能だ。
ここで私が言っているのは、私が大事だと思って抽出して伝えた感情や出来事については少なくともそのまま私にとって「大事だった」と理解し、受け止めてもらうことだ。
だから、私は私に起こった出来事状況を私がどう噛み砕いて調理したのかを
ちゃんと聞こうとしてくれる人、理解しようとしてくれる人に心を開きたいと思う。
そして、そういう人とは、色々な出来事に私が施す調理法についてもっとシェアしたいと思う。そしてその人の調理法についても聞きたいと思う。
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私はどうも、相手が「受け止められるかどうか」を悟ってしまうのが早いようだ
だから、シャッターは早々に閉めることもある。私が誤解され傷つくリスクを減らすためだ。
最近、完全に安全と思って人と一緒に居れることの貴重さをつくづく感じる。
安全と思って、きっと思いたくて
100伝えて、伝わってたつもりが
それが40と思われてたときのなんとも言えない感覚。
友達という言葉があるが
友達とは、なんだろうか
友達は友達でも
本当に安心して本心を喋れる人はなかなかいないのかもしれない。
いや、本心は言葉にできても
そこに乗った小さな悲しみ、怒り、戸惑い、葛藤 そういった細かい粒子を感じ取ることができる人は、少ないと思う。
この粒子を読み取る能力は、私は恐らくまぁまぁ高い。
そして、ここの能力がお互いに高いと、思ってもみなかった深層心理に眠っていたことや、どこかで押し込めたままだった感情や葛藤が掘り起こされることがあるのだ。
こういう会話って、話してるだけで何か体の中や頭の中にあった黒いものがなくなってたり減ってたりするのだ。知らぬまに。
私は、そういう粒子を感じ取れ、言葉以外の豊かさとフィット感が足されていくような会話をするのが好きだ。もちろんここで使う言葉も大切だが、それを補う色々なエネルギーが共にある感覚が好きだ。
話してると自然と沈殿していた汚れや問題が浮き彫りになるからだ。浄化できて、すっきりできるからだ。